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劇団アンドエンドレス■原作…坂口安吾/演出・構成…西田大輔
■キャスト
田中良子as語り女/村田雅和as語り部/窪寺昭asウマヤド/村田洋二郎asムツ/シシュンas岩崎大輔/藤田優衣asハヤリ/中川えりかasナツメ/宮本京佳asトジコ/佐久間祐人asモリヤ/ほか
■あらすじ
人の気が狂うという満開の桜の木の下。男はそこで一人の女に出会い、過去を語り出す。それは、「未来が見える」男が国の政権争いの最中に経験した、哀しく儚くそして狂気に満ちた物語だった。
日出国(ひいずるくに)のオオキミが死に、国は後継者争いの真っ只中にあった。候補者はオオキミの妻の弟シシュンとその兄アナホベ(名前あいまい)。2人には支持する豪族がいた。シシュンには甥のウマヤドとムツ、そしてユトラ。3人は幼馴染である。アナホベにはモリヤとカツミ。ウマヤドは日照りに苦しむ国のため、巫女のトジコに雨乞いの舞を躍らせる「新嘗祭」を執り行うことにした。小間使いのハヤリや、妻のナツメらの協力のもと、新嘗祭の準備は進んでいく。ある晩、ナツメが気晴らしに「桜の森の満開の下」の話をするが、ウマヤドは何故かその話に惹かれていく―――
■感想★ネタばれしまくりんぐ★
何だかわからないけど僕はこの舞台が鬼のように好き。物語も良いんだけど、幻想的な音響と照明をばっちり活かした演出にビンビンきた。
舞台は、現実と物語の2つを軸に進む。現実は「政権争い」、物語は「坂口安吾の小説」。基本的にウマヤドを主人公とした「現実」がメインで、その中で「物語」が語り部たちによって語られる。この2つの軸が混ざり出すところにゾクゾク感を感じた。
・死の宣告
劇中に桜の女が「○つ目」と囁く。このカウントは普通に考えたら「死」の数。トジコ登場前に「2つ目」、桜の女たちが舞うところで「3つ目」、モリヤ、カツミ、ハヤリの死で「6つ」、ナツメで「7つ目」。そして「本当の8つ目」は「母親」か「ユトラ」。「本当の」ということは「嘘の8つ目」があったはず。ウマヤドの告白は、先視からは逃げられないことを痛感して母親にすがり、母親もまたウマヤドを受け入れて「2人で暮らそう」と持ちかけるところで終わる。しかしこの「母親に受け入れられた」のが嘘で、本当は「ユトラと密通していた」のを見た。そして2人を追いかけ、殺した。これが「本当の8つ目」。2人とも殺していると9つ目になるが、ナツメは正確には死んでないから、計算では8つ目になる。結局「嘘の8つ目の死」はよくわからん。
われながら強引だなー。
・語り部の意味
ラストはウマヤド以外が語り部になり、『桜の森~』を情感たっぷりに朗読する。僕はここにぐっとくるんだが、まあそれは置いておいて、ここから何がいえるか。それは、ウマヤド以外はみんな死んだということだ。劇中に死んだのはハヤリ、シシュン、モリヤ、カツミ、カジマル。ナツメは自殺未遂。ユトラと母は最後に「死」が示唆された。トジコも登場前に「3つめ」と宣言されていた。ムツは「お前は助かる」とウマヤドに言われたが、おそらく死ぬ。これは後に書く。そういうことから、語り部は死者だと思われる。あるいは現実から外れた者たちである。その証拠に、語り部は「黒衣」に身を包んでいる。
すると、気になる演出がある。「語り」は「現実」の中で滔々と語られるが、「現実」の人物はその語りを聞くことはできないし、語り部を見ることもできない。しかし途中から、ウマヤドは語り部の「声」が聞こえるようになり、語り部の「本」を拾うこともできる。つまり、ウマヤドは生と死の境界にいるということだ。また、ナツメも自殺直前に「本」を読む。ナツメは死に直面しているのであり、そこは境界が曖昧なのだ。だから「本」を読むことができたのだ。しかしウマヤドは死なない。なのにどうして境目に立てたか。桜に魅入られたからか、「先視」のせいか。うーん。
また、語り部が服を脱ぐ場面も死と生を象徴している。服を脱いだ語り部は「色鮮やかな」衣装を着て「現実」の人物として舞台に登場する。それが表しているのは死から生への移行、あるいは、現実と虚構の交錯もしくは融合なのだ。
・甦る死者の死
「現実」にきた語り部はユトラと母である。つまり「本当の8つ目」だ。意味はあるのだろうか。もちろんあるだろう。少なくとも、僕はそう思う。彼らはウマヤドに「呪い」をかけたといっても過言ではない。ユトラは「果てない世界を創る」という約束に基づき、ウマヤドの周囲の人間を殺していく。母は「お前が生まれたからオオキミは死んだ。お前は化け物だ」と責め立て、ウマヤドの存在証明を奪っていく。ある意味では、それがウマヤドが世界に固定された理由なのかもしれない。
ウマヤドはユトラについて「彼だけなんです。嘘を吐かないのは」と評する。そして母親について「先視ができない人が一人だけいるんです」と述べる。嘘を吐かない人間、未来が見えない人間とは何か。それは死者である。ユトラと母は、「現実」にいながら死者なのだ。そして生ける屍は最後に再び殺される。殺されることが分かっていたかのような。予定調和だったのか。だから最初語り部だったのか。いやー違うな。何でこの2人が最初の語り部だったのかはわからない。
・ナツメの愛
ちなみに「先視ができないのは死者」という観点で考えると、ナツメが何故自殺を図ったかが分かる。ナツメはウマヤドに覚えていてほしかった、自分を見てほしかった。しかしウマヤドが求めていたのは「先視ができない人間」だった。それは死者でしかない。ナツメは自らを死者と化すことで、ウマヤドが最も求めていた人間になろうとしたのだ。ある意味ではこれも呪いか。
・ウマヤドの孤独
ウマヤドは「先視」で未来が見えることが嫌で仕方が無い。自分の価値の全てを「先視」に置かれ、それ以外に意味がないように思えてくる。だから、ウマヤドは何とか「先視」できない未来を求めている。死ぬ運命が見えたモリヤやカジマルに「逃げろ」というのはその証だ。「先視」が万能でなければ、本当の自分を見てもらえるからだ。しかしそれはユトラの計によりことごとく失敗し、結局「先視」からは逃れられない。そしてウマヤドは絶望する。親友と思っていたムツも、ウマヤドの「先視」を頼りにしたのだ。ウマヤドは「お前は助かる。だから目の前から消えろ」と声を振り絞る。しかしこれは嘘だと思った。絶望感からくる復讐ではないのか、と。この未来が見えていたのか分からないが、ウマヤドが嘘を吐いた方がしっくりくると思った。そして最後の頼りだった母もユトラと密通しており、ウマヤドは本当にひとりになる。
周りの人間がすべて死に、ウマヤドは孤独になった。だから孤独が怖くなくなる。だから気が狂うはずの桜の下が怖くなくなる。孤独は、集団がいるからこその孤独であり、孤独そのものは孤独を感じない。それは「他者」があって初めて成立する関係である。
・桜の女たち
桜の下の女たちの衣装は「白」である。語り部の黒は死、現実の色づいた服は生ならば、「白」は何を意味しているか。白は何にも染まる色。つまり彼女たちは人間の原始、生まれたての意思、大げさにいえば世界の始まりか。すべてが等しい状態。そこに「個性」が打ち込まれ我々は「個人」になっていく。その過程で「他者」が生まれ「集団」が形成され、そして「孤独」が生まれる。彼女たちこそ孤独の根源。彼女たちから生まれた人間は、そこで心地よさと恐怖を覚えるのだ。
また、原作に「とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。」とあるように、あるいは彼女(たち)は鬼だったのかもしれない。白は他の色とは一線を画す色。「人でないモノ」を象徴していたのかもしれない。
3回目を見て思ったこと。女たちは、ウマヤドの周りで死んだ人間ではないか。ユトラとの密通を見られた母親がウマヤドに追いかけられる場面で、途中、女と入れ替わる。母親=女ではないか。ならば彼女たちは死者から語り部へ移り変わる段階の姿ではないだろうか。「桜」は死者のモチーフということだ。
『桜の森~』は死者が紡ぐ物語だ。そして桜に魅入られた生者を「孤独」によって狂わし、それによって死んだ者が再び物語を紡いでいく、それはまるで呪いのような、永遠の物語なのだ。始まりは終わりで、終わりが始まり。だからこそ、オープニングは語り部(死)から始まり、エンディングも語り部で終わるのだろう。満開の桜の下では、死が生を包み込み、繰り返されるのだ。